つわものどもの夢の跡
'97年 パリ・ブォージラール通り13番地 (13 rue de Vaugirard

使用器材 CameraLEICA M6 Titanium + SUMMILUX-M 1:1.4/35mm FilmKodak DYNA EX ASA100


 '73年の春、私が約2ヶ月過した18フラン(当時のレートで何と480円)の安宿の名残です。 ここを拠点として、気が向くと列車に飛び乗り、イギリスからオーストリアまで東西に移動しました。 当時の面影は、13番地の文字と入り口のドアのみです。
その後も、パリを訪れるたびにMetro Odeon駅で降りてここを訪れているのですが、残念ながら、'97年の春に訪れた時には、この店に模様替えしていました。 カルチェラタンのリュクサンブール宮殿の裏手にあります。 私の青春です。 


初夏、日曜日のリュクサンブール宮殿
宮殿の裏手が 13 rue de Vaugirard です。 そんなに急いで何処行くの?
'017月撮影
使用器材 : NIKON COOLPIX 990

 
初夏、日曜日のリュクサンブール公園
お兄ちゃん、何処見てるの?
'017月撮影
使用器材 : NIKON COOLPIX 990

 
初夏、日曜日のリュクサンブール公園
華より団子にあらず、花?
'017月撮影
使用器材 : NIKON COOLPIX 990

 リュクサンブール公園には、アメリカに贈られた「自由の女神」像のオリジナルや、ドラクロアの胸像などが木々の間に置かれています。

 丁度、私と行き違いにスウェーデンの若い男女二人(勿論、未婚の)がシベリヤ鉄道経由で日本に来て、当時実家のあった佐渡で私の実家に逗留し、父の海軍英語で何とか通じたようです。 もっとも、ほとんどはボディー・ラングエイジだったと思います。

( 以下、使用機材はCameraNikon F2 + NIKKOR-S 1:1.4/50mm FilmKodak Extacrome ASA100  )

1973年、ここでの私 25歳です。

 
このホテル(?)は2段ベットの4人相部屋で、勿論トイレもシャワーも(勿論、バスタブなどはありません)廊下にあり宿泊者全員の共用です。 こんな場所なので、私もそれらしい格好をして、当時愛用のNikon F2はバックの中に入れて、周りに溶け込むようにしていました。
 夜行列車の中で知り合った(善良そうで、正当な)ヒッピーから教えてもらったホテルで、名前を知りませんでしたが、10年程前に知ったのですが何故かfiloFaxのホテルガイドに"UNESCO"として記載されていました。
通りの住所でしか覚えておらず、今でもそらんじています"13 rue de Vaugirard"(勿論、フランス語で発音できます。カルチェラタンにあります)。 まあ、私の青春の記念碑の一つとでもいいましょうか。
  丁度、写真に見える向かい側の家の窓からシャルル・アズナブールの"Hier Encore"(「帰り来ぬ青春」)の歌がいつも聴こえてきていました。 部屋の主は若い女性の様でしたが、どう言う人生だったのでしょうか?

当時愛用のNikon F2Cook'sの列車時刻表
NIKON COOLPIX 990 )
 今でもパリへ行くたびに、自然と足はここに向きます。     Hier Encore ! (Yesterday, when I was young.)


  当時、パリではTimetableが欲しいと言ってもその英語の単語さえも全く通じず、本屋や駅でも見掛けませんでした。 ロンドンへ行っても見つからなく、とうとうThomas Cookの本社まで行き、納得しました。 Thomas Cookの列車時刻表は通常は赤表紙ですが、何と1973年3月号はThomas Cook社の創立100周年記念号で銀色の表紙の特別装丁のもので希少価値のあるものでした。
100年間の間の歴史的な時刻表もダイジェストで掲載されており、ロンドンからシベリア経由東京までツェッペリン飛行船によるルートとかいろいろ入っています。 勿論、私の宝物として今でもボロボロにはなりましたが、保存してあります。
 勿論、InterCityTGVなどの個性の無い新型車両になる前の有名な豪華列車は殆ど乗りました。 例えば、パリからニースまでのLe Mistralはタイピスト、美容師付きの豪華列車でした。他にはライン川に沿って走る黄金の天蓋車のReine Goldなど今では見ることもできません。

Le Mistral パリ〜ニース
Rein Gold ミュンヘン〜ケルン
Rein Gold 黄金の天蓋車
1973年撮影


  このホテルでは関西弁をしゃべるフランス人とか、私よりも書道に詳しく上手いオーストラリア人とか、旧日本軍の軍用紙幣を売りさばきながら旅行費用を稼いでいる香港からの中国人とか、変な連中とばかり知り合いました。
  このオーストラリア人(こいつはオーストラリア人なのに、きれいな英語で哲学者のような話し方をする奴でした)と香港からの中国人の二人が同室で、三人で近くのソルボンヌ大学の授業に紛れ込んだり、夜遅くまでパリの巷を徘徊したり、楽しい日々を過しました。
  彼らとは互いに住所など世間染みたことを話すことなく、ただ黙って握手を交わすことで、互いの気持ちを表わし別れました。 彼らがその後、どのような人生を歩んでいるかは神様のみご存知です。
  私も高校生の頃にヨーロッパに来ていれば、永住する覚悟は出来たと思いますが、その時すでに奨学金を貰っていたり、いろいろとしがらみがあり決心できませんでした。

  ヨーロッパとはこういう国ですが、私はNot Born Freeでした。

1965年公開の映画「野生のエルザ」の原題"Born Free"より、
          Born free, as free as grass grow...

  このホテルで気づいたのは、日本人である私は白人の仲間として扱われ、白人と同室でしたが、黒人は黒人同士の相部屋であった点です。
  残念ながら、人種差別をしないと言われているフランス人も底辺では差別しているということです。
ただ、国籍を取れば肌の色に関係なく、フランス人として認めているのは素晴らしいことと思います。
 
  ロンドン大学の学生寮に泊めてもらった時は、バルバドスからの黒人留学生の部屋に間借りしました。 偶然にも航空工学の専攻でした。
やはり日本人に対しては、英国人はパターンの死の行進等が記憶に残っているのかとその時は思いました。
 
 逆に、ドイツのペンションに泊まった時は、父の戦時中のことを話し日本人と分かってからは江戸っ子だってねの調子で、家族と一緒の食事となり、親父さんには戦友たちの集まる酒場に連れて行かれ、全員に紹介され、また一緒にやろう(戦争を)と、"Deutchland ueber Alles!"(ドイツ帝国万歳)の大合唱となる始末でした。 仕方が無いので、私も踵を鳴らして答礼するなど酔いと若さにまかせ、はしたないことをしました。
  仕事や勉強のことはすぐ忘れるのですが、四半世紀以上も前のことであるのに、何故かペンションの名前を今でも覚えています。
Stuttgartの"Hause am Heldweg"です。 その後、何度かStuttgartに行っているのですが、訪れるチャンスを逸しています。
実は同じ歳の娘が入院しているので、会って話し相手になってくれと親父さんに頼まれて、日独親善(?)の一役を果したのですが...。
 話をもとにもどしますが、当時旅行者としての私でも英国の連中と話していると、明らかに鍛冶屋の倅は鍛冶屋にしかなれないと言うあきらめを感じました。 それが、当時のビートルズやモヒカン・ルックと言った奇抜な格好をして、せめてもの抵抗をしている理由と感じました。
 
  今でもそうですが、ヨーロッパの街角や地下鉄の構内などで見かける辻音楽師が好んで弾いている曲は「日曜はだめよ」ですが、時々「シンシアのワルツ」も 聴きます。 この曲は、私の生まれ故郷の地方テレビ局BSN放送のテストパターンのBGMとして使われていたこともあり、私にとってはこの曲を聴くと胸にジーンと来るものがあります。

  バックグラウンドで流れているのが、シンシアのワルツ、パーシー・フェイス楽団の演奏です。